僕が選んだ“女子社員”という道

やっと手にした採用通知

僕はとうとう”採用通知”を手にした。思わずその紙を何度も見返した。

落ちた企業が100社を超え、面接で「声が子供っぽいね」と笑われたことも数え切れない。それでもやっと掴んだこの内定は、僕にとって救いだった。大学の奨学金返済を控え、親に迷惑をかけたくない僕には、この会社しかなかった。

その企業は女性用下着メーカーだった。面接時、社長の女性に“会社の未来を共に創っていきたい人材”とまで言われて、喜びで胸がいっぱいだった。

しかし、入社初日、僕の名前が書かれた名札を受け取ったとき、違和感が一気に押し寄せた。

「これ、女性用ですか?」

受付の女性がキョトンとした顔で答える。「男性用の名札なんてありませんよ。当社は女性しか採用していないので…」

その瞬間、心臓が跳ねた。僕の中性的な名前と見た目、声変わりしていない声、そして150cmしかない身長のせいで、履歴書を男性として書いていたにも関わらず、女性として採用されてしまったのだ。

焦る僕を見て、受付の女性は上司を呼んだ。会議室に通されると、そこにはスーツを着た役員の女性たちが座っていた。その視線が一斉に僕に注がれ、冷や汗が背中を流れた。

「あなた、本当に男性なの?」

その一言で、僕はすべてを認めるしかなかった。

すると、重々しい沈黙が落ちた。面接で”共に会社を創っていきたい”とまで言ってくれた社長が、ゆっくりと口を開いた。

「残念だけど、うちは女性しか採用していないの。誤解で採用してしまったことは謝ります。ですが規則なので、退職するか、女性として働くか、どちらかを選んで欲しい」

100社以上落ちて、やっと手にしたこの内定を、こんな形で失うわけにはいかない。大学の奨学金を返済する義務が僕を縛っていた。

「……僕…じゃなくて、私…女性として働きます」

その場で絞り出した言葉に、全身が震えた。

午後からの業務は先輩社員の女性が、僕をショッピングに連れ出した。

「明日から女性社員として働くんだから、それなりの準備をしないとね!」

彼女の言葉に、僕はぎこちなく頷いた。連れて行かれたのは、明るくカラフルなレディースのアパレルショップ。薄手のブラウスやスカート、体のラインを強調するニットなど、僕は息が詰まりそうになった。

「これなんか、絶対似合うと思うよ!」

彼女が手に取ったのは、淡いピンクのブラウスとフレアスカートのだった。細かな刺繍が施されていて、触れると滑らかな質感が指先に伝わる。その美しさに見惚れながらも、僕の中には強い抵抗感が渦巻いていた。

「本当に、僕がこれを着るのでしょうか?」

「もちろん!大丈夫、私が全部手伝ってあげるからね!じゃあこれは一式購入するね」

次に向かったのは化粧品売り場だった。彼女が選んでくれたファンデーションやリップスティックを試すうちに、鏡に映る自分が少しずつ変わっていくのがわかった。店員さんが手際よく眉毛を整え、アイシャドウを塗り重ねるたびに、僕の中に奇妙な感覚が芽生えた。

「ほら、見て。すっごく可愛い!」

彼女の声に促されて鏡を見ると、そこにはまるで別人のような僕がいた。羞恥心で顔が熱くなるのを感じながらも、心のどこかで新しい自分に惹かれている自分がいた。

初めてのヒールは、想像以上に不安定だった。一歩歩くたびに足首がぐらつき、先輩と店員の前でぎこちない姿を晒すのが恥ずかしくてたまらなかった。

―――業務に追われる日々が過ぎる中で、僕は徐々に慣れていった。いや、慣れざるを得なかった。髪を肩まで伸ばし、声のトーンを高くする訓練を受け、化粧も日常の一部になった。化粧品の感触や、口紅が唇に塗られる瞬間の冷たさには未だに違和感が残る。それでも、他の女性社員たちの中で浮かないよう努力するうち、自分が何者なのかわからなくなる瞬間が増えていった。

そんなある日、僕は社長に呼び出された。

「最近、あなたの働きぶりは素晴らしいわ。でも、どうせなら、しっかりと手術をして戸籍も変更したら?」


新しいステージへの葛藤

社長室の静寂が僕を包み込んだ。大きな窓から差し込む午後の日差しが、テーブルの上で揺れている。視線の先には、面接時に僕を笑顔で迎えてくれた社長がいる。その優しげな眼差しが、今は僕の心の奥底に何か鋭いものを突き立ててくるようだった。

「どうせなら、手術をして戸籍も変更したら?」

一瞬、時間が止まった気がした。その言葉が何を意味するのか、頭では理解しているつもりなのに、心が追いついてこない。

「……手術、ですか?」

絞り出すように出た声は、以前よりも少しだけ高くなっていた。

社長は穏やかに頷く。「あなたはこの会社にとって大切な存在よ。だけど、他の社員と比べると、どうしても男性だから違和感を覚える人もいるの。そうした声を抑えるためにも、あなた自身が新しいステージに進むことを選ぶのはどうかしら?」

“新しいステージ”――その言葉が妙に響いた。戸籍を変える。それはつまり、自分がこれまで必死にしがみついてきた”僕”という存在を手放すということだ。

「私には、そんな選択肢が…」

途中で言葉が詰まった。頭の中で必死に反論を探しても、次第に心のどこかで受け入れようとする自分がいる。

「大丈夫、手術費用はもちろん会社がだすわ。それに……あなただけじゃないのよ」

社長の声が意外にも柔らかく響く。

「実はこの会社には、過去にあなたと同じ道を選んだ人が何人もいるのよ。彼女たちは今、会社には無くてはならない存在になっているわ」

突然の告白に、胸がざわついた。僕以外にもこんな状況に追い込まれた人がいて、それでも”新しい自分”を受け入れた人がいるというのだろうか。

「少しだけ時間をあげるわ。決断は急がなくてもいいからね」

社長が席を立ち、僕の肩に手を置いた。その温もりは、まるで僕を支えてくれるようでもあり、逃れられない現実を突きつけるようでもあった。

社長室を出た後、心臓がドクンドクンと早鐘を打つ。廊下を歩くたびに、周りの女性社員たちが明るい笑顔で挨拶をしてくる。その一つひとつが、僕に突きつけるのだ――「あなたも私たちの一員だ」と。

その日の帰り道、僕は鏡の前に立った。髪を結い、化粧を施した顔がそこに映る。それは確かに”僕”ではない誰かだ。だけど、目を細めると、その”誰か”が微笑んでいるように見えた。

「本当に、僕がこれを受け入れるのか…?」

夜の静寂の中、僕の心は揺れていた。でもその一方で、ふと口元に笑みが浮かぶ自分がいた。

次の日、僕は社長室に戻った。ノックしてドアを開ける。社長が微笑んで迎えてくれた。

「どう?決めた?」

僕は深呼吸をし、そして小さく頷いた。

「私…前に進みます」

その瞬間、社長の表情が満足そうにほころんだ。


手にした未来

手術室の白い天井を見つめながら、僕はゆっくりと深呼吸をした。点滴から流れ込む薬剤の冷たさが、腕を伝っていくのがわかる。

「リラックスしてくださいね」

優しい声の女性看護師が微笑む。その笑顔に安心しながらも、胸の奥では言い知れぬ恐怖が渦巻いていた。

この手術が終われば、僕は本当に”女性”になる。
いや、正確には”女性”にならざるを得ない。

社長に勧められ、会社の未来のため、自分の居場所を守るため、はこの道を選んだ。それは逃げではなく決断だ。

「それでは、麻酔を入れますね」

意識がゆっくりと遠のいていく。

―――目が覚めた瞬間、全身を襲う鈍い痛みと、焼けつくような違和感に息を詰まらせた。

「成功しましたよ」

医師の穏やかな声が耳に入る。

だが、その言葉を聞いても、僕は安堵することができなかった。

下腹部にかすかに残る感覚の喪失。これまで当たり前にあったものが、もう存在しない。その事実を理解するたび、喉の奥がひりついた。

病室の静寂の中、自分の体に手を這わせる。膨らんだ胸、完全に”女性のもの”になった下半身。

これで、もう後戻りはできない。

それでも、なぜだろう。喜びよりも、不安が心を満たしていく。

「僕、これでよかったのかな……」

声に出した瞬間、涙がこぼれた。

―――数週間後、会社に復帰した私は、見た目も振る舞いも完全な”女性社員”として扱われるようになっていた。スカートを履くことも、化粧をすることも、同僚と女性同士の会話を交わすことも、日常の一部になった。

でも――。

鏡に映る自分を見ても、そこにいるのは本当の”僕”なのか、それとも、作られた”私”なのか、もうわからなくなっていた。

過去の自分の写真を見つめる。
そこには笑顔を浮かべた”僕”がいた。

「君は、今の私をどう思う?」


問いかけても、当然、答えは返ってこない。

心の奥底で、私はまだ、過去の僕を探しているのかもしれない…。

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